織田信長は砂糖菓子が大好きだった!?
戦国武将・織田信長と言えば誰もがよく知っている歴史上の有名人ですよね。信長は49歳で本能寺の変によりこの世を去りましたが、いろいろと謎も多いのです。
信長が好きだったと伝えられている食べ物は「こんぺいとう」「干し柿」「焼き味噌」「湯漬け(冷やご飯にお湯をかけたもの)」だそうです。
こんぺいとうや干し柿のような甘い物と、焼き味噌のようなしょっぱいものを添えた湯漬けが好きだったのですね。
信長が活躍した戦国時代は、農民たちはふだん米ではなくアワやヒエの雑炊を主食として食べていたそうです。もっとも、戦地に赴くときは米が支給されたようですね。
庶民はロクにお米も食べられないような時代ですから、砂糖なんてものは超貴重品だったはずです。口にすることはほとんどできなかったでしょうね。
でもこんな時代に、信長はある理由で砂糖菓子のトリコになったんですよ。今回は、織田信長もすっかりメロメロになってしまった「砂糖菓子」についてのお話です。
こんぺいとう入りのガラス瓶を贈られた織田信長
織田信長は1569年に京都でキリスト教の宣教師ルイス・フロイスと面会した際、コンフェイト(こんぺいとうの原型となる砂糖菓子)入りのガラス瓶を贈られたそうです。
信長はコンフェイトをとても気に入り、快くフロイスの願いを聞き入れ、キリスト教の布教を許可したんです。
砂糖を大量に使い、鶏卵を使用したものも多い南蛮菓子は、それまでの日本の菓子にはない何とも言えない味わいでした。カステラやボーロなど。
キリスト教の宣教師たちはこの南蛮菓子を布教に大いに利用し、人々の興味をひくために南蛮菓子を配ったのですって!
すっかり南蛮菓子が気に入った信長はその後、接待にも甘い砂糖菓子(砂糖・水飴・水を煮詰めたもの)を利用したそうですよ。
このエピソードは「あの織田信長も砂糖が大好きだったんですよ♪」と美談扱いされることが多いのですけど、その後信長はどうなったのでしょうか?
えっ、織田信長は糖尿病患者だった!?
実は織田信長は糖尿病患者で、糖尿病合併症の神経障害に苦しんでいたのではないかと考えられているのです。
当時「飲水病」と呼ばれていた、やたらとのどが渇いて水をたくさん飲むという症状に加えて、安土城に入ってからは手足のしびれや痛みがひどかったそうです。
信長は糖尿病神経障害による体のしびれや痛みに悩んでいて、そのイライラから癇癪を起こしがちだったのではないかという説まであるほどです。
よっしーも3年半前に糖尿病と診断されたときは、足の指がちょっとしびれたりチクチク痛んでいたんですよ、糖質制限で自然に治りましたが…
当時は、先ほどちょっと紹介したように農民たちはアワやヒエの雑炊しか食べられなかった時代です。現代と比較すれば糖尿病患者はかなり少なかったはずです。
でもそんな時代に信長が糖尿病に苦しんだと考えられるのは、やはり「砂糖をたっぷり使用した大好きな南蛮菓子」が大きな原因ではないでしょうか?
また当時すでに「飲水病」という病気が知られていたことからも、信長だけではなく糖尿病患者はそれなりに居たのではないかと思います。
日本国総糖質中毒状態の現代をどう生きるか?
信長が砂糖菓子入りのガラス瓶を贈られたのは36歳の時で、43歳で安土城を築いてから糖尿病神経障害と思われる症状に苦しみました。
もともと甘いものが好きで軽い糖尿病があり、砂糖菓子を食べるようになったことがさらに病気を悪化させたのかもしれませんね。
そして49歳の時にあの本能寺の変が起こり、この世を去ったのです。もし信長がもっと長生きしていたなら、藤原道長のように糖尿病合併症で目がよく見えなくなったかもしれません。
すでにみなさんよくご存じの通り、砂糖には強い依存性があります。かつてキリスト教の宣教師たちは、これをうまく利用して布教をすすめていたぐらいです。
織田信長の時代は砂糖や白米をお腹一杯食べることができる者はごくわずかでしたが、現代の日本では国民総糖質中毒状態です💦
もともと多くの人が食べていなかったものが、いつの間にか誰でも食べたいだけ食べられるようになりました。
そして「みんなが食べているのだから、これを食べるのは当たり前だ」ということになり、食べない人はおかしいということになってしまったんですよね。
すでに糖質は、日本経済の仕組みの中にガッチリと組み込まれています。だから糖質制限への風当たりもいまだに強いですし、戸惑う方も多いですよね。
この「日本国総糖質中毒状態」の中でどう生きれば、私たちは健康になれるのでしょうか。病院のお医者さんたちも、多くは糖質中毒です。
戦国武将の織田信長ですら、砂糖菓子の甘い誘惑には勝てませんでした。今までの常識を捨てるのは簡単なことではないかもしれませんが、ここでじっくりと考えてみませんか?